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父と私。【心の病を持つ者の家族として】

ちょうど10年前の今日、父が亡くなりました。70歳でした。
亡くなるまでの10年余り、精神科の閉鎖病棟に入院していました。

父は一級建築士でした。
今残っている建物では、宮内小の体育館、旧隼人町水道課、塩満書店、隣保館などを設計しました。

幼稚園のころ、鹿児島神宮そばの自宅のすぐ横に事務所がありました。
確か、最初父のほかに2人働いていました。やがて、1人になり、そして父だけになりました。

私が小学校に上がるときに、心機一転鹿児島市に転居しました。
祖父が小さな家を建ててくれ、そこを借りて住んでいました。
しかし、ほとんど仕事はありませんでした。来る日も来る日も、ただ製図台に向かっていました。
母は祖父の竹細工の工場で働き出しました。

少し、父の言っている事がおかしいなと思い出したのは小学校の低学年だったと思います。
いわゆる妄想的な発言が恥ずかしかったのを覚えています。
「コントミンを飲めば、グーグー眠れる」と言ったかと思えば、「薬はもう飲まなくていい。医者は僕を悪くしようとしている」などと言ったりしました。

ラ・サールに合格し、学費を払うために母は別な会社で働くようになりました。
父は、相変わらず仕事はなく、よく隼人町役場に行っているようでした。
「今日は健康の森の話をしてきた」などとよく言っていました。
何か変な話をしてるんじゃないだろうか、と不安でした。

父はだんだん状態がひどく、妄想的な発言が増えていきました。
ラ・サールの同級生は、医者の家庭の子も多く、裕福な家庭がほとんどでした。
何故、自分の家はこうなのか。父が悪い。父のせいだ。そう思うようになっていました。

高校2年の時。
生徒会役員のAくんがニヤニヤしながら手紙を私の前に出しました。
「お前の親父が変な手紙を送ってきたぞ」
中を見ると、確かに父が生徒会に向けて書いたもので、意味不明な文章でした。
私は恥ずかしさと怒りでAに「黙れ」と言うと、普段と違う私の様子にAもすぐに「すまん」と言って去りました。

家に帰った私は、寝ていた父を叩き起こし、手紙を見せ、「なんだこれは!」と怒鳴りました。
そして、父の顔面を拳で思い切り殴りました。
父は「ごめん、もうしないから。ごめん」と繰り返すだけでした。

高校3年になって、大学進学をどうするか。
成績も優秀ではなかったのですが、県外の大学に行くようなお金はない。ましてや浪人はできない。そして自分は一人息子。
当時A日程とB日程の2校受けられるような形の大学受験でしたが、A日程もどこも受けず、B日程の地元の鹿児島大学のみ受験することにしました。私立大学も旅費と受験料がもったいないからと受けませんでした。
教師も母も受けるだけでもと勧めてくれましたが、結局受けませんでした。
幸い、現役で鹿児島大学に合格する事ができました。

大学時代の途中で、祖父の会社の経営が思わしくなく、祖父が建ててくれた今まで住んでいた家を出なければならなくなり、すぐ近くにあった古い借家に夜逃げのような形で引っ越しました。夜中に家族3人で大きなタンスを運んだことを昨日のことのように覚えています。この頃になると、父は「健一郎、お前に宮内の土地をやるからな」と口癖のように言っていました。
私は「別にいらないから」と本気で思っていました。
ただ、父にとって息子にしてやれることはそれだけだったのでしょう。

就職の時、たまたま友人が「国分市役所の試験がある。お前も受けないか?」と誘ってくれました。
元々隼人町出身だった自分は「生まれた田舎に帰るのもいいかもしれない」と思いました。
隼人町役場の試験の日を確認しましたが同じ日でした。
どちらを受けるべきか?と考えましたが、「隼人町役場の人は、父のことをよく知っているだろう。五郎の息子だと変な目で見られたくない」と思い、国分市役所を受けることとしました。

国分市役所に就職した私は、一人住まいを始めました。
家を父と母だけにするのも不安もありましたが、父とは関わりたくないとの思いもあり、実家に帰ることはほとんどありませんでした。
そして、その頃、祖父の会社はいよいよ状態が悪く、連帯保証人になっていた父の土地が競売にかけられることになりました。
父は母に祖父に騙されたと激しく怒りました。母は何も言えませんでした。
父の唯一の心の拠り所、父親として息子にしてあげられること、その宮内の土地は無くなりました。

それから間もない、入庁3年目の暮れ。
母から職場に電話があり「父が家で脱水症状になっていた。今から隼人の病院に入院する」
上司にすぐに報告し、慌てて病院に向かい、初めて閉鎖病棟というところに入りました。
次の日、出勤した私に「いけんやったな?大丈夫やっと?」と上司が尋ねました。
「大丈夫です。〇〇病院なので」と答えると、上司は察してくれ、それ以上何も聞きませんでした。

数ヶ月で一旦退院できました。その時はまだ会話ができました。
しかし、すぐに再度入院となり、もう会話らしい会話はできなくなりました。
一度、一時的に転院しないといけない時があり、転院先の病院で「精神科の患者は何をするかわからないから、必ず家族がついていてくれ」と言われ、母と交代で泊まり込んだ事がありました。
その病院で屈辱的な言葉をスタッフから言われ、院長に泣きながら抗議しました。

それから10年入院していましたが、母は毎週のように鹿児島から隼人までJRで通いました。
私は国分に住んでいましたが、父のことが許せず、また会話もできない父を見舞うのも抵抗があり、病院に足を運ぶことは年に1回程度でした。

最後は父は肺炎で亡くなりました。
平成23年9月12日。朝方、肺炎で転院した病院から電話があり、母はすぐに向かいましたが、私はどうしても一旦職場に出なければならず、間に合いませんでした。


合併して霧島市になって、旧隼人町の職員の上の方はやはり父のことを知っていました。
ほとんどの方は、私に気を遣って、苦笑いのような感じであまり喋ることはありませんでした。
それはそれでありがたかったのですが、AさんとBさんだけは違いました。

ある時エレベーターでAさんと二人だけになり、私の名札をちらっと見たAさんは「秋丸設計は・・・」話しかけてきました。
「息子です」と答えると、次の瞬間グッと私の手を握り「頑張れよ」と一言だけ言って降りていきました。
あの手の力強さは忘れられません。

Bさんとは、ある飲み会で一緒になり、その時がほぼ初対面でしたが「あなたと話をしたかったんだ」と来られ、父がいかにすごかったのか、という話をとうとうとされました。「秋丸五郎の伝説というのは凄かったんだぞ。お父さんに負けないように頑張れよ」と。
Bさんに「父のことをこんなに話してくださったのはBさんが初めてです。本当にありがとうございます」と深々と頭を下げました。

今、政治活動をする中で、やはり「昔、秋丸設計ってあったけど・・・」と言われることがよくあります。
「はい、息子です」と答えると、父の話を語ってくれる方もいます。
「あの頃、一級建築士は隼人町で一人しかいなかった」「とにかくビンタが良かった」「フリーハンドでスラスラとデッサンを描いていた」「コンピューターもない頃、構造計算とかをちゃんとできる人は少なかった」等々、私の知らない父の話を。

父は土地は残せませんでしたが、「宮内の秋丸設計」の名前はしっかりと残してくれていました。

私はといえば、正直、亡くなってはじめて父のことを冷静に考えられるようになりました。
そして、亡くなった時から8年余り、福祉で仕事をしていました。
弱っている人、病みかけている人と喋る時、特に年上の男の方と喋る時、そこに父の姿が被ることがあります。
「薬はちゃんと飲まないといけないですよ」「脱水には気をつけてくださいね」

税務課に移ってからも同じような感じで、気になった人は、話を深く聞き、時に福祉につないでいました。
退職後、元の職場を訪ねると「秋丸さんを訪ねて〇〇さんが来られました。秋丸さんが生活保護を勧めてくれたことを言っていました」「女の方が申告の時に凄く秋丸さんに話を聞いてもらって、また聞いて欲しいと訪ねて来て、泣いてました」

お客さん以外、市役所職員で弱った人の相談を受けることも何人もありました。「話を聞いてくれそうなんで」と。
もちろんそういう人とはとことん時間を割いて話をしていました。「大丈夫、僕はそう思わない」「全然、それでいいじゃないか」

こういう自分であること、それもやはり父が残してくれたものなのでしょう。
今日の10年祭、一つの区切りの日、そんなことを考えていました。

父と私。昭和48年、宮内の自宅にて。
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